北朝鮮の核開発の歴史
北朝鮮の核開発は1990年代以降、東アジアにおける安全保障上の重要課題の一つとなっています。ニュースやワイドショーでも取り上げられることが多いテーマです。しかし、どのような経緯で核開発が始まり、問題となったのか、知っている人は少ないのではないでしょうか。
そこで1990年代初期に起きた北朝鮮核危機について、改めて振り返ってみることにします。
原子炉建設と深まる疑惑
北朝鮮は1985年、原子炉四基の提供を受け原子力発電所を建設する協定をソ連と結び、NPT(核不拡散条約)に加盟しました。NPT加盟国はIAEA(国際原子力機関)による査察が義務づけられていますが、北朝鮮は査察の協定を締結することを拒み、その姿勢に対しアメリカは核開発の疑いを抱くようになります。
1992年、北朝鮮は最終的にIAEAの査察に合意しますが、査察が進むにつれ、北朝鮮が申告したプルトニウムの組成が調査結果と一致しない、また未申告の施設が偵察衛星により発見されたが北朝鮮はその公開を拒否するなど疑わしい行動が見られました。
北朝鮮のNPT脱退
1993年3月、北朝鮮はついにNPTからの脱退を宣言しました。
その後、北朝鮮はアメリカに対し交渉を要求、同年6月2日にニューヨークで米朝交渉が始まり11日に妥結します。北朝鮮はアメリカから核を含む武力による脅迫や武力行使を受けないとの保証を受け、かわりにNPT脱退を中断することとなりました。
7月から10月にかけてのジュネーブにおける協議では、北朝鮮が従来の黒鉛減速炉を軽水炉に転換させるかわりに軽水炉の提供をアメリカが支援することとなりました。
高まる緊張
しかし1993年8月に北朝鮮はIAEAの査察に制限を加え始め、94年5月にはIAEAの立ち会いなしに核燃料棒を取り出し、これまでの検証が不可能になったことから、北朝鮮・米国間の緊張は一気に高まりました。
このような事態を受けて、アメリカのクリントン政権は北朝鮮への武力行使を具体的に検討し始めましたが、それに対し韓国の金泳三(キムヨンサム)政権は武力行使に反対しました。
これは、1994年3月の南北特使交換実務協議の際、北朝鮮側の朴英洙(パクヨンス)代表は米韓が北朝鮮に攻撃を仕掛けた場合「ソウルは火の海になる」と発言したためです。北朝鮮の軍事力を考慮すると「ソウルが火の海になる」ことは確実であり(ソウルは軍事境界線から約50kmの位置にあり、大砲や短距離ミサイルの射程圏内)、韓国の被る損害の大きさから金泳三政権は戦争回避に動いたのです。
韓国の武力行使反対を受けて、米国も平和的解決を模索するようになりました。
カーター元大統領の訪朝
戦争回避のためにアメリカのカーター元大統領が94年6月15日に訪朝し金日成(キムイルソン)主席と会談、IAEAの査察の受け入れで合意しました。
7月8日に金日成主席が死去した後も米朝交渉は続けられ、10月21日に、北朝鮮は黒鉛減速炉と関連施設を凍結するかわりに、米国が軽水炉提供に協力するという米朝枠組み合意に達し、北朝鮮の核危機は一旦は終息しました。
その後
しかし、その後の経過は周知のように、2003年に再び北朝鮮の核開発疑惑が持ち上がり米朝枠組み合意は破綻するに至りました。そして、現在、北朝鮮は核兵器を保有していると考えられています。つまり、結果的には米朝枠組み合意のコミットメントは反故にされたということです。
このように94年の北朝鮮核危機には、今日まで続く北朝鮮の瀬戸際外交の片鱗が見て取れるのです。
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